東郷平八郎 1847-1934 連合艦隊司令長官東郷平八郎は弘化4年薩摩藩士の四男として生まれる。 薩英・戊辰戦争に参加後、イギリスに留学し、日清戦争では戦艦「浪速」の艦長として出征する。この時、豊島沖で清国兵を輸送中のイギリス商船を国際公法にもとづいて撃沈し有名となる。日露戦争では連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊と戦い完勝し、提督としてネルソンと並び称される。戦後は海軍軍令部長となり元帥となり、大正期は東宮御学問所総裁となる。昭和8年暮れに病床につき、昭和9年5月30日に没したが、国民的英雄で6月5日に国葬が執り行われ、東郷邸から日比谷の葬儀場までの沿道に60万人、葬儀場付近に70万人、葬儀場から多摩墓地までの沿道に55万人、合計185万人が見送った。いわば国民的英雄の魁的な存在の方であった。 春霜堂には東郷平八郎元帥の「勤皇殿」なる額が玄関正面に顕彰されている。 明治44年、英国王戴冠式に出席した東郷はその後、アメリカを訪問した。 そしてワシントンの墓地、海軍兵学校、アメリカ議会などを訪れたあと、日露戦争の調停を行ったルーズベルト元大統領の別荘に向かった。 二人はここで初めて対面することになる。待ちきれずに邸内をうろうろしていたルーズベルトは、東郷が乗った車が到着すると、玄関の前に駆け出して自ら出迎えたという。 邸内に入り初対面の挨拶をすませたあと、東郷は日本からの土産として武者人形の入った箱を手渡した。受け取ったルーズベルトは嬉しさのあまり客前で箱を開け始め、あたかもクリスマスプレゼントを貰った子供のように熱心に包みを解いたそうだ。 そのあと東郷はルーズベルト夫妻と共に昼食をとり、1時間ほど日露戦争の話をした。 このあとルーズベルトは、ルーズベルトは明治天皇から頂いた刀を東郷に見せたり、書斎に案内し、壁に飾ってある記念品を一つ一つ説明したりしたが、 途中で所用のためルーズベルトが部屋を出たあと、入れ替わりに夫人が入ってきた。 彼女は壁に掛けてある一枚の連隊旗を指し、「主人はこの旗について閣下に何かご説明しましたか」と東郷に尋ねた。 「いえ、何も伺っておりませんが、何か由緒でもございますか?」東郷がそう答えると、「そうですか。この旗は主人が初陣で敵から奪った大隊旗で、客人が来たときはいつも自慢しているのですが、きっと閣下のような世界的な名将の前では恥ずかしくてお話しできなかったのでしょう」と、夫人が説明した。 「いえ、そんなことはありません。私の微功もご主人の御勲功も、時と所こそ違うものの、国家に対する覚悟と責任に違いはありません」そう東郷が言い終えたとき、ルーズベルトが部屋に戻ってきた。彼は「余計なことを言うな」とはにかみながら夫人に言ったそうだ。 |